プロ野球選手になって親を楽にしたい~無常にも夢砕かれた青年の挫折と挑戦

笑うとチャーミングな大男は、とても優しい。

友人の紹介で彼に出会ったのは今年6月のこと。

目と目を合わせた瞬間、「彼と一緒に何か面白いことがしたい」と脳内に電気が走った。

その男は樫村 瑞生(183cm/90kg)。まだ24歳という若さにかかわらず、中目黒の一等地でトレーニングジムを経営するパーソナルトレーナー。口コミだけで集めた会員は15人。

「歩き方から身体は変わる」ファッションショーモデルにも独自の理論を伝授する

平均して週に1,2回サポートするという。そんな「健康のプロ」に私の身体の悩みを相談したことから始まった。

「確かな理論」と「自分に関わるすべての人を、幸せ(健康)にする環境を作りたい」という彼のモットーに激しく共鳴。そして何よりその「熱さ」に心が動かされた。

私は前職を退社した直後、すぐさま彼の「トレーニングYouTube番組」を立ち上げることを決心した。何度も打合せを重ね、伝えたいメッセージをまとめ、演出を考え、ロケをして、私も部署の後輩に教わりながら動画編集をした。

そのチャンネル「みずトレ」が本日、11/1(金)に公開となった。

スポーツトレーナーみずきの「気持ちい♡」腰痛改善エクササイズ公開!

何だか宣伝のようになってしまうが(否めないが)、私が何故、彼に惚れ込んだのか。

彼の魅力を知ってもらいたく、彼の人生のほんの一部ではあるがここで紹介させてもらうことにする。

5人兄弟の末っ子、すくすく育つ

1995年7月27日。茨城県日立市で5人兄弟の末っ子として産声をあげる(既に私は小学3年生だ)。しかも全員、男。

お友達にいますか?全員男の5人兄弟の末っ子が。

やはり、兄4人全員が野球をやっていたのもあり、彼も自然と野球漬けに。想像するだけでも賑やかな家庭で大きく育っていった。

ご両親に感謝。小学6年で160cm(私は150cmも無かった。この比較はもうやめよう)。

恵まれた体格を生かし、少年団では4番・捕手・キャプテン。日立のドカベンと呼ばれたとか。この頃から将来は「プロ野球選手になって、お父さん、お母さんを楽にしてあげよう」と決めていた。

農園を開く実家の美味しい米をたくさん食べ、すくすく育った。

中学3年で179cm。十王中学を県大会で準優勝まで導いた(自身は同大会で最優秀選手賞)。

その実力が目に留まり、スポーツの特待生で明秀学園日立高校に入学する。

部員60人の同校野球部を率いるのは青森・光星学院で巨人・坂本勇人選手らを育て、全国屈指の強豪校に導いた名将・金沢成奉監督。

この上ない指導者にも恵まれ、めきめき力をつけ、高校1年の秋にはスタメン入り。背番号は3。捕手や一塁手として打線では主軸を任された。

表情は少しあどけないが、いかにも飛ばしそうな構えだ

そして高校最後の夏、甲子園をかけた県大会ではベスト8進出(茨城全100校)を果たした。

高校最後の夏。エンジンの中心で声をあげる樫村さん(中央) (左は名将・金沢監督)

さぁ、高校卒業後、どんな野球人生を送るか。周囲は期待した。高校入学時からドラフトの候補にも入っていた。

しかし、生涯ベンチから外れたことのない野球エリートである彼の決断は、

「現役引退」だった。

共に汗を流してきた仲間は「何でやめるんだよ!」などと彼を問い詰めた。

彼自身、この決断によって「親への約束」を果たせなくなり自分を責めたりもした。

「プロ野球選手になって親孝行をする」。

親孝行どころか、「自分が野球をしてきたことによって、たくさんのお金を使わせてしまった」。そして何よりも「ミズキの野球を見るのが何よりの楽しみ」だった両親に「野球をする姿」をもう見せられない。

これからどうしたらいいのか。わからない。

そんな思いのまま、流通経済大学にスポーツ推薦ではなく指定校推薦で入学することにした。

大学に入ってしばらくは何も手につかず、バイトをしながら学校に通う、ごく普通の大学生活を送っていた。

病気を言い訳にしたくなかった

では何故、野球一筋の人生にピリオドを打ったのか。

誰しもが抱く疑問に対し、彼は私に重たい口を開いてくれた。

「実は僕、運動性ジストニアだったんです」。

「運動性ジストニア」。神経がうまく作用せず、自分の意志に反して筋肉が収縮してしまう病気。全力疾走をしたら一気に筋肉が固まり、顔が歪み、体がねじれて動けなくなる。ひどい時は喋り辛くなることもある。

中学3年の頃から「体が重たく」感じはじめ、高校1年の時に運動性ジストニア(錐体外路障害)と診断された。

しばらくは仲間にも病気のことを隠してプレーしていた。

試合中、全力疾走をして身体が固まり、うずくまった時、「くねくねしている」と笑われたこともあった。

仲間たちも悪気はなく、彼もポジティブな性格なので、そのこと自体に深く落ち込むことはなかった。

しかし、何よりも「大好きな野球」を「全力」で出来なくなった。

そのもどかしさ、悔しさが彼を苦しめた。

症状も時を追うごとにひどくなってきた。

そんな中、踏ん切りがついたのが金沢監督からの一言だった。

「このままではプロにはなれないな」。

彼のことを誰よりも理解してくれていた金沢監督がそう告げた。

全力で野球ができないストレスも爆発寸前だった。

そんな彼の姿をずっと見てきたからだろう。ストレートで厳しいその言葉は彼を楽にさせた。

そして、現役引退を決断。

空白の時間

しかし、野球しか知らず、その野球を失った自分に何ができるのか。

目の前が真っ暗になりながらも、何とか前に進まなければならないと、スポーツトレーナーについて学べる流経大に通いはじめた。

前述したとおり大学入学当初は心にぽっかり穴があいたまま。

「現役引退」から「指導者」へ。心はそんなに簡単に切り替えられなかった。

ここでは苦しむわけでもなく、もがくわけでもなく、ただただ無気力に時を過ごした。

しかし、時間が解決させてくれた。

大学生活2年が過ぎた時、ようやく心に火がついたのだ。

次回、「樫村瑞生、トレーナーの道」をお伝えする。

ニュース バズーカー編集長 庄野数馬