「サッカー選手、上船利徳」上船利徳氏に迫る#3

2週間空いてしまった。気づけば街は冬の装い。彼と出会ったのはつい1ヶ月ほど前のことなのだが。彼があまりにも熱かったものだから。あれが夏のことのようで、季節感がおかしくなりそうだ。そんな彼から漂う陽炎を思い出しながら、話の続きだ。

上船利徳氏(27)。高校サッカー部監督で校長先生(詳細は#1・2で)。

キックマスターの名でYouTube界に飛び込み、最多再生回数動画は…

51万5400回になっているではないか。前回(11/4)に彼のことをこのサイトで伝えてから2週間あまり。その間に更に2万3600回、回っている。

そう、彼はサッカー指導界の「バズーカー」なのだ。

エネルギーの塊、上船利徳氏。(インタビュー時に撮影)

バズーカーの生い立ち

2つ年上の兄の影響でサッカーをはじめる。バズーカー少年は中学で学校の部活ではなく、その兄の所属した東京のクラブチーム、ヴェルディ調布へ入団(所謂ヴェルディではない)。

兄の背番号は栄光の「10番」。兄の弟でよかった。ユニホームをおサガった。

上船利徳、「ヴェルディ」の10番になる。

高校進学を控え、バズーカーは日本地図を眺めた。「どこでもいいから全国大会に出たい」。

高校野球では地元ではない選手がその街で発起するイメージが皆さんにもあるだろうが、サッカーも同様だ。その中で、父親の故郷で祖父母も住む「鹿児島」に目をつけた。

鹿児島と言えば、カジツ(鹿児島実業)をはじめ強豪校がひしめき合うまさにサッカー王国。多くのプロサッカー選手や日本代表選手を世に送り出している。

カジツはダメだった。門前払いだった。プレーを見てもらうチャンスすら与えられなかった。

そんな中、自分に興味を持ってくれた学校があった。今や全国の常連「神村学園」だ。

故郷を離れて鹿児島・神村学園へ

彼が中学2年の時に全国で3位に入った強豪校だ。練習参加をした際に、神村の竹本監督の目に留まった。肩の脱臼をしていた為、テストでは10分ほどしかプレーできなかったにもかかわらず。彼が認められたのは「とにかく高いコミュニケーション能力」だった。サッカーは集団競技。ただ技術があるだではチームの役には立たない。それに加えてご自慢の「情熱」で押し切った。最近になって竹本監督と話した時に「あの時は断るに断れなかったよ。お前から逃げられなかったよ」と微笑みながら告白されたらしい。

ここまでは順風満帆のサッカー人生。しかし、そう甘くはなかった。

部員90人の神村学園サッカー部。簡単にレギュラーにはなれない。

高校2年の時、冬の全国選手権で全国ベスト8を果たすも出場の機会は得られず。

焦りが苛立ちに変わった。チームのルールを破ってしまったのだ。「炭酸飲料の摂取禁止」、「寮の外出禁止」違反。今思えばかわいいものだが、強いチームは規律も厳しい。

しかしそこから彼は心を入れ替え、頭を丸めた。人一倍練習に励んだ。

そして迎えた高校最後の年、冬の選手権、全国のピッチに立つ。

大会直前、怪我に悩まされたがそれを乗り越えた。地区大会決勝ではあのハンパナイ大迫選手も輩出した鹿児島城西戦で決勝ゴールをアシストした。

「関東1部へ、上げる」

努力は嘘をつかないことを証明したのだ。努力は続く。自ら練習参加を申し込み、東京国際大学の門を叩いた。バズーカー、関東に帰る。

入学前の東京国際大学は埼玉県リーグ1部。怖いもの知らずのバズーカーは埼玉1部も、関東1部も変わらないだろ。「3年あれば1部まで行ける。上げてみせる」。そう意気込み進学を決める。

だが、入ってすぐに気づく。「関東1部のレベルの高さ、ハンパない」。これは思っていたより容易なことではない。「普通にやっていたら無理だ」。

そこで諦めるどころかギアを変えるのが上船利徳。寝る間を惜しんでサッカーのことを考え、可能な限り身体を動かした。

関東1部ではないが、県の1部リーグに所属するチーム。部員は400人。1年目はBチームだった。

しかし、有言実行の男は目標を達成するべく第一歩、2年目からAチームで活躍。県リーグで優勝を果たす。

3年生で関東2部リーグ制覇。

東京国際大学時代。ピッチで躍動する上船氏。

そして4年生の時、念願の関東1部リーグ昇格。有言実行。ついに大業を成し遂げたのだ。

この頃の上船氏は怪我で出場できないチームキャプテンの代わりに腕にCのマークをつけ試合に出場。ほとんどの試合でゲームキャプテンを任されていた。

Cマークを巻き試合に出場する上船氏。明治大学戦

「僕は下手です。でも人一倍やればできるんです、ヘタクソでも」。彼の口癖のようだった。

こうなると勿論、目指すはプロサッカー選手。大学時代、J1の鹿島や浦和と練習試合をして「やれている」自信はあった。

J2の草津に練習に参加した。しかし手応えはあったものの、オファーは来なかった。「俺はJ2でもダメなのか」。現実を突きつけられた。

それでも「サッカーをやめる選択肢はなかった」。

高校時代を過ごした鹿児島にあるJFLチーム・鹿児島ユナイテッドから声がかかった。しかし、そのユナイテッドの練習に参加した後、母校・神村学園の竹本監督に挨拶にいった時のことだった。

恩師の竹本監督が彼に放った一言が人生を大きく変えた。

「上船、JFLに行かんで海外にいかんか」。

海外に行く選択肢がその頃、一切なかった上船氏。イメージがつかなかったが、ある人物との出会いがまた、彼を動かす。

浦和レッズや京都サンガの監督などを務めたドイツ出身のゲルト・エンゲルス氏を紹介してもらったのだ。

そこからはスピーディーだった。エンゲルス氏の招待で、ドイツで開催される合同トレーニングに参加することになる。

バスーカー、ドイツへ渡る

気づけばバズーカーはドイツの地を踏みしめていた。

その練習を見たエンゲルス氏がバズーカーに「一目ぼれ」。

手厚いサポートで2か月間に8チーム、練習参加の機会を作ってくれた。

ブンデスリーガ3部リーグや、23歳以下の1部リーグのチーム(フォルトゥナデュッセルドルフ)にもトライした。

そしてバズーカーが22歳の時、エンゲルス氏が「4部ではできるぞ」と告げた。

2015年1月、KFCユルディンゲンへの入団が決まった。契約時はエンゲルス氏が通訳をしてくれた。

ドイツでプロの世界へ。契約時。

言葉はゼロから。ピッチ上で飛び交う言葉を覚えていく。勉強嫌いの上船氏だったが「ドイツ語が話せなければパスもこない」と必死になって勉強した。

契約は半年更新。常に土俵際に立たされる思いでサッカーに向き合った。

4部とは言え、サッカー大国。満足のいく給料と車(ベンツ)と家もついてきた。

背番号4、ピッチ入場

入団していきなり開幕戦にも出場を果たした。しかし、土俵際に立たされているのは彼以外の選手も同様だった。同じポジションの選手同士が練習で、削り合うのだ。日本の温室育ちの彼にとって経験したことのない日々だった。

このサバイバルに身体が悲鳴をあげた。ついに膝蓋関節損傷に。致命傷を負った。

シーズンを通してプレーができず半年の契約が切れた。継続ならず。

現役にこだわる上船氏は、5部のチーム(5部で首位争いをするチーム)に渡り、プレーを続けた。給料は劇的に減った。車もついてこなかった。

ここでの契約は1年間。チームは彼を必要とした。開幕からレギュラーをはった。

彼は腐らず鍛錬に鍛錬を重ね、ほとんどの試合に出場した。

だがその分、致命傷が疼きだす。試合の後、歩くことも出来ないほどの激痛が襲う。

それを堪えて練習をし、試合に臨む。そしてまた…

ついに、痛みに強いバズーカーが、練習に参加できなくなった。

これ以上、選手として上を目指せない。

2015年11月。上船利徳22歳、プロサッカー選手引退。

誰にも弱音を吐かなかっただけに怪我のことは誰も知らなかった。

彼を応援してきた周囲は「ここまで来てなんで辞めるんだ」と引退を反対した。

しかし、決断をした瞬間から彼は前を向いていた。

「引退直前の3か月は寝られないほど考えました。こどものころから続けてきた大好きなサッカーができなくなると考えると…」。

しかし、彼の表情に曇りは無かった「けど、出来ることを全てやった結果です。後悔はないです」。

決意をした瞬間から彼のサッカー脳は「指導者」にシフトチェンジされていた。

「ドイツに行って日本との差を身体で感じました。これを日本の子供たちに伝えたいんです」。

そして、もう一つ、こども達に伝えたいことが。

彼自身、プロになる目標を達成した瞬間、それまでの熱量は減ってしまっていたという。

さらなる目標がなくなっていたのだ。

この自らが痛感した「目標設定の大切さ」を教えることこそが彼の指導者としての理念になっている。

自分の経験を伝えられるのは自分しかいない。

「サッカー選手として多くの人に支えられ、ここまで導いてもらいました。今度は僕がこどもたちに可能性を伝える番です」。

上船利徳、23歳。指導者としての第一歩を踏みしめ始めたのである。

ニュースバス―カー編集長 庄野数馬